読んでから観るか、観てから読むか
─小説『国宝』の映画化を例に─
─小説『国宝』の映画化を例に─
タイトルの言葉は、私が中学生だった当時、テレビやラジオのCMで流行した小説・映画『人間の証明』(1)の宣伝コピーです。当時は推理小説ブームで、小説と映画を抱き合わせで売り出す、さきがけとなる時代でした。戦後、夏目漱石『こころ』、芥川龍之介『羅生門』、川端康成『伊豆の踊子』等、名作が映画化されることはありましたが、小説と映画を同時に売り出し、その相乗効果によって両方をヒットさせる手法の合い言葉が、「読んでから観るか、観てから読むか」でした。
ところで、最近、映画『国宝』が実写邦画として22年ぶりに国内興行収入100億円を超える大ヒットとなったことが話題になっています。原作小説『国宝 上 青春篇』『国宝 下 花道篇』も合計130万部を突破し、さらには歌舞伎人気も再燃する等の相乗効果が生まれているようです。本校からよく見える滋賀県立総合病院がロケ地となったと聞き、私も人気にあやかるべく7月に鑑賞しました。ただし、まずは原作本を「読んでから観る」ことにしました。
兵庫県公立高校の国語科教員であった藤本英二氏は、原作小説の映画化を「再話」と定義し、次のように述べています。
再話というのは〔中略〕原作を映画化・劇化・漫画化するというやり方です。これは「私は原作をこう読みました」という、創造的な読みです。「伊豆の踊子」が映画化されたとき、川端康成自身が「映画というのは原作に対する批評だ」と述べ、「映画化されるということは、映画監督によって作品が批評されているのだ」と言ったらしいのですが、それは「〈再話〉するという読み方は創造的な読みなんだ」という、私の言いたいことと重なると思います。(2) |
つまり、「再話」された映画作品は、原作小説を映画に変換しただけのものではなく、新たに創造された別の作品である、という視点が大切なんですね。藤本氏による『伊豆の踊子』の小説と映画の比較分析は大変斬新で、かつて私も授業で取り上げたことがあります。中高生のみなさんも好きな映画を観て、ストーリーや俳優の演技について友だちと感想を言い合うことがあるでしょう。次は少しレベルを上げて、原作小説を読んだ上で、両方を比較する話し合いをしてみることをオススメします。
そこで、今回は『国宝』を例に、小説と映画を比較検討するための観点について考えてみます。
第一に、小説は長編になるほど情報量が多いため、2〜3時間という時間制限のある映画化に際しては、登場人物や事件が大幅に簡略化されることになります。『国宝』では、映画版は3時間越えの長編作品ですが、登場人物はかなり絞られており、エピソードも大幅にカットないしは簡略化されています。特に、主人公「喜久雄」の親友兼ボディガードである「徳次」は、小説版では味のある脇役として最後まで重要な役どころなのですが、映画版では少年期のみの登場にとどまっています。個人的には映像で観たかった人物でした。他に映画化にあたりカットされた人物を見つけ、その理由を考えて見るのが面白いでしょう。
第二に、小説が言葉によって構成されるという性質上、人物の内面を直接的・詳細に描きますが、映画では映像を通じて人物の内面を間接的に描くことになります。小説ではセリフ(発言・心内語)、表情・態度の描写、語り手による説明等、多面的に人物像を読みとれますが、映画では映像と人物の発言だけから読みとらなければなりません。現に、映画版では人物の葛藤が十分伝わりにくいと感じました。しかし、映画『国宝』は、歌舞伎特有の圧倒的な映像美と俳優の演技力で観客を魅了してきます。また、歌舞伎俳優しか知らない裏方の様子も描かれています。例えば、劇場の舞台と花道の床下のことを「奈落(ならく)」と呼びますが、「薄暗い奈落を抜けました喜久雄は、花道の下へやってまいりますと、セリ台に乗り、じっと息を詰めます(3)」と書かれても読者は想像するしかありませんが、映画はリアルに見せてくれます。これらの点に着目して、作品の価値を批評するのも興味深いものです。
第三に、二点目にも関連して、小説には語り手が存在するが、映画には(原則的に)存在しないという点です。小説『国宝』が設定する語り手は、かなり異質な特徴を持っています。
その年の正月、長崎は珍しく大雪となり、濡れた石畳の坂道や晴れ着姿の初詣客の肩に積もるのは、まるで舞台に舞う紙吹雪のような、それは見事なボタ雪でございました。(第一章冒頭)
そろそろ今章のページも尽きますれば、その辺りのお話はまた、次章にてお付き合い願えればと存じまする。(第三章末尾)(4) |
誰かに語りかけている(書いている)ようでもあり、歌舞伎のセリフのようでもありますね。この語り手はどういう人物なのか、このような言い回しをする意味は何なのか、興味は尽きません。これは映画版にはできない、小説ならではの「しかけ」「謎」であり、検討する価値がありそうです。
以上の観点を参考に、映画を観た人は小説を読み、小説を読んだ人は映画を観て、『国宝』比較論を話し合ってみることをオススメします。それが探究のきっかけになることは間違いありません。
読んでから観るか、観てから読むか。 「どちらでも興味のある方からどうぞ」が私の回答です。
注釈
(1) 小説『人間の証明』は森村誠一作、1977年角川書店刊行。映画『人間の証明』は佐藤純彌監督で1977年公開。
(2) 藤本英二『プリコラージュ通信3号 写真とことばの物語』2001年(自費印刷本)。
(3)(4) 吉田修一『国宝 上 青春篇』2021年、朝日文庫。