立命館学園は、来年2025年に創始155年、創立125年を迎えます。明治維新からまもなく、大志を抱く若者のために私塾「立命館」を立ち上げた学祖・西園寺公望。その30年後、西園寺から「立命館」の名を継承し、立命館大学を創立した中川小十郎。この二人の偉人の生き方を端的に表現したのが、建学の精神である「自由と清新」です。そのうち「清新」は、立命館大学英文サイトで「innovation」と訳されている通り、イノベーション=「技術革新」といった意味です。一方、〈自由〉は誰でも知ってはいるものの、いざそれを理解しようとすると少々やっかいな言葉なのです。そこで、今回は、この〈自由〉の意味についてあらためて考えてみることにします。

本題に入る前に、よくある誤解について少し触れておきます。先ほど「やっかいな」と言ったのは、〈自由〉を辞書で調べると、「他から制限や束縛を受けず、自分の意志・感情に従って行動する(出来る)こと」(「新明解国語辞典・第七版」)のように説明されている点です。しかし、そもそも「他から制限や束縛を受け」ない状態というのは、よく考えれば現実にはあり得ないことです。もし、人々が「他から制限や束縛を受けず、自分の意志・感情に従って行動」したら、社会や集団・組織は維持できません。だから例えば、社会には「法律」、会社には「就業規則」、学校には「校則」というルールがあり、それらはすべて「制限」であり「束縛」であると言えます(ただし、それらのルールは将来にわたって絶対不変のものではなく、必要に応じて変更される余地はありますが)。したがって、〈自由〉にはさまざまな「制限」が伴うことを、まずは大前提として理解する必要があります。

その上で「〈自由〉とは何か」シリーズの第1回は、「〈自由〉は実感するもの」をテーマに考えてみます。

みなさんは〈自由〉を感じたことがありますか。あるとすれば、それはどんな時だったでしょうか。
私の経験では、今から40年ほど前、故郷群馬県の高校を卒業後、大学入学のため単身、京都駅にひとり降り立ったとき、「自分は自由だ」と感じたことを思い出します。
こうした人生の転機に、〈自由〉を実感することが多いものです。本校生徒であれば、立命館守山中学校・高等学校への合格が決まったとき、「自分は自由だ」と実感する瞬間があったのではないでしょうか。つまり、やりたいことを達成できた(あるいは達成できそうな)時、人間は〈自由〉を実感するのです。やりたいことが大きいか小さいか、どれほど達成できたかという「度合い」によっても、〈自由〉を実感するレベルの大小が異なることでしょう。

人間は誰しも「〜をしたい」という「欲求」をもっています。また、欲求はひとつではなく、常に複数存在します。例えば、「何か食べたい」や「眠りたい」といった生理的レベルから、「全国大会に出場したい」といった意思的レベルに至るまで、様々な「欲求」を同時にもっているはずです。さらには、「欲求」同士はしばしば対立することがあります。例えば、海外研修に参加し、現地の方々との交流の中で英語のできない自分に落胆したとき、「もっと英語ができるようになりたい」という欲求をもつはずです。でも、帰国して時間がたつと、「勉強はしんどい。できればしたくない」という欲求が生まれてきて、それらが対立することになります。このように、私たちの心のなかでは数限りない欲求がせめぎあい、その都度、どちらを優先するか判断をしながら日々の生活を送っているのです。

こうして、「勉強したくない」欲求に打ち克って、日々の努力を重ねた結果、英語ができるようになり、来校した留学生と英語でわかり合うことができたとき、喜びとともに、「自分は自由だ」と実感することでしょう。つまり、〈自由〉を実感するためには、日々の地道な努力がなければなりません。努力を積み重ねた人のみが〈自由〉を実感できるのです。

このことは、勉強のみならず、スポーツや楽器の習得等、あらゆることに共通しています。自分の思い通りのプレーができたとき、イメージ通りのメロディを奏でることができたとき、それこそ「自由自在」の境地に到達することができるわけです。
現代社会は、科学技術の高度な発達により翻訳アプリを使えば外国語コミュニケーションが可能な時代を迎えています。しかし、海外の友人と翻訳アプリでコミュニケーションできたとして、〈自由〉を実感することはないでしょう。多少は感じたとしても、努力の結果コミュニケーションができるようになることと比べれば、それは雲泥の差ではないでしょうか。

このように考えてくると、〈自由〉を実感する機会を増やすこと=「自由になる」ことであり、さらに言えば、人間は「自由になる」ために日々を生きている、ということでもあります。

以上、〈自由〉とは何かを考えるための最初の論点として、「〈自由〉は実感するもの」であることを考察してきました。〈自由〉を実感する体験をより多く重ねることで、充実した学校生活を送ることができるのではないでしょうか。

※ この記事は、4月9日始業式での校長講話に加筆したものです。
※ 苫野一徳『「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学』(NHKブックス、2014年)を参考にしました。