立命館学園の建学の精神である「自由と清新」をふまえ、前回、「〈自由〉とは何か」について、「やりたいことを達成できた(あるいは達成できそうな)」時「自由だな」と感じる、つまり〈自由〉とは実感するものであり、そうした経験を増やすことが大切であることを述べました。
そこで、今回は、自分と相手(他者)の〈自由〉がぶつかり合ったらどうするか、をテーマに考えます。

前回、「私たちは常に様々な欲求(〜をしたい)をもつ存在であり、時には自分自身の中で欲求同士が対立しあっている」ことを指摘しました(「英語をできるようになりたいが、勉強はしたくない」等)。一人の人間の中でさえ欲求の対立があるのですから、いわんや二人以上の人間が寄り集まれば、お互いの欲求がぶつかり合い、対立が発生します。しかも、私たちは様々な他者と関わりながら、多様な集団に所属して生きています(家族、親戚、友人、学校、クラス、クラブ、塾、〇〇教室等)。対立がすぐに解決するような些細なレベルもあれば、なかなか解決できないレベルの対立を経験し、悩ましい日々を送ることもあります。なぜ対立するかと言えば、完全に同じ外見の人がいないように、完全に同じ考え方・価値観の人は存在しないからです。十人いれば十通り、百人いれば百通りの考え方・価値観があるといっても過言ではありません。したがって、考え方・価値観が異なる者同士が関係を作る過程において欲求が対立するのは当然のことであり、自分と相手(他者)の〈自由〉は必然的に対立するものであると言えます。

しかし、そういう時、自分の〈自由〉は相手に認めさせたい一方、相手の〈自由〉は認めたくないという思いに駆られ、そのような言動をとってしまうことが起こります。その典型例が「いじめ」行為です。いじめは、法律によって、次のように定義されています。

「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。(1)

全く同じ考え方・価値観の人はいないのですから、「〜したい」という欲求が対立するのは、当然のことです。欲求の対立を解決するためには、まずは相手が自分とは異なる欲求を持っている事実を認める(理解する)以外にありません。言い換えるなら、両者の〈自由〉がぶつかりあったときに大切なのは、相手の〈自由〉をまずは認めたうえで、自分の〈自由〉も認めてもらうこと──〈自由〉の相互承認──ということになります。そのうえで、問題点はねばり強い話し合いで解決する必要があるのです。
にも関わらず、相手の〈自由〉を認めずに、無視や暴言(心理的影響)、暴力(物理的影響)等の手段を使って、相手に「心身の苦痛」を与えることが「いじめ」になるのです。

この「いじめ」の構図は、子ども社会だけでなく、残念ながら大人社会でも起こっています。さらに言えば、国際社会、国家レベルでも起こっています。国家レベルでの究極の「いじめ」は、戦争です。戦争は、自国の〈自由〉を通すために相手国の〈自由〉を認めない行為です。連日テレビや新聞で報道されている通り、いまこの瞬間にも多くの人々が傷つき命を奪われています。それを停止すべく世界中の人々が立場を越えて賢明に努力しているものの、国際社会は戦争を止める有効な手立てを講じることができていません。

立命館学園は、建学の精神「自由と清新」に並んで、教学理念「平和と民主主義」を掲げ、「世界と日本の平和的・民主的・持続的発展に貢献する(2)」ことをめざしています。我々大人に果たすべき責任があることを前提として、未来に生きる生徒のみなさんも、平和な世界を実現するために、どうすれば国際社会で〈自由〉の相互承認、本当の平和が実現するのかを深く考えてほしいと強く願います。それを考えるためには、国際社会を理解するための世界史や地理、世界のニュースを読むための英語、自分の意見を構築するための国語等、基本科目の学びが欠かせません。

同時に、まずは足元から見直してみましょう。日常生活の中で相手をリスペクト(尊重)できているか。〈自由〉の相互承認を実行できる感性を持てているか。
それを端的に表した言葉を最後に紹介して、終わります。
“Think globally, Act locally.”

(1) 「いじめ防止対策推進法」(平成25年法律第71号)
(2) 「立命館憲章」(2006年7月21日学校法人立命館)
※ この記事は、4月9日始業式での校長講話に加筆したものです。
※ 苫野一徳『「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学』(NHKブックス、2014年)を参考にしました。