「与える」のか「引き出す」のか
─教育の「本質」とは?─
教育について考える際、言葉の意味・語源にさかのぼると見えてくるものがあります。やや手垢にまみれた感はありますが、今回は「教」と「education」の比較から始めます。
「教」の文字は、「爻」は校舎、「子」はこども、「爻に攴(鞭)を加えて、学舎で学ぶ子弟たちを長老たちが鞭(むち)で打って励ますこと」を示すとされています(1)。このことは、古代中国では教育には一定の「強制力」が伴うものと考えられていたことを示しています。「愛の鞭」という言葉にも通じるものを感じます(なお、「鞭」と言えば、教員になることを「教鞭をとる」と表現しますが、これは生徒を打つための道具というよりも、黒板を指示する棒と解釈するのが無難のようです)。
一方、「education」は、ラテン語で「e-」が「外へ」を意味する接頭語、「ducate」が「引き出す」ことを意味するという説が言われており、これまで私も「教育とは、内にあるものを外へ引き出すこと」のように理解していましたが、今回改めて調べたところそれは誤解であるとの指摘を見つけました。つまり、本来の語源であるラテン語の「educare(=養う)」が「educere(=引き出す)」と混同され、勘違いされたという指摘です(2)。どうやら後者が有力であると思われます。その真偽はとにかく、前者のような解釈が広く流布してきたのは事実です。
「教育とは何か」を考える時、この「外から内へ」か「内から外へ」かが一つの対立軸・論点として想定できます。あえて単純化すると、前者は「空の容器に何か液体のようなものを注ぐ」イメージ、後者は「内側に隠れたものを見えるようにする」イメージでしょうか。つまり、「何もないところに付け足す・与える」のか、「最初からあるものを引き出す」のかという対立です。
もちろん、どちらかが正しくて、どちらかが間違っていると言いたいわけではありません。教育の営みは、時々の状況に応じて変化してしかるべきですが、「本質は」と問われれば、私は、(たとえ誤解であるにせよ)「education」の考え方──教育とは子どもの内側にあるものを引き出す行為であること──こそが教育の「本質」であると主張したいと思います。
数年前、各分野の著名人や専門家が自説のスピーチを行う「TED Talks」の動画で、スガタ・ミトラ氏(インド出身の認知科学者、教育テクノロジー専門家)のプレゼンを視聴したことがあります(3)。
1999年、ミトラ氏はある実験を思いつきます。それは、インド・ニューデリーのスラム街に高速インターネットパソコン数台を設置し、誰でもいつでも使える環境を作ったら、子どもたちはどのような行動をするのか、観察するというものでした。スラム街ですので、そこで生活する子どもたちは、学校にも通えないため、満足な英語を話せないだけでなく、コンピューターを見たこともないし、インターネットの存在も知りません。そして、インドでの実験だけでなく、世界各地の貧困地域で同様の機材を設置し、同じように観察を数年間にわたり続けます。
これらの壮大な実験から以下の意外な事実が浮かび上がります。
それは、子どもたちは自分たちで相談しながらパソコンの操作方法を身につけ、インターネットを活用し、ゲームに興じるだけでなく学習にも取り組み、インド訛りだった英語がイギリス式に矯正され、学力の向上が見られた、という事実です。つまり、子どもたちは、先生(教える人)がいなくても、勝手に学んでいたのです。
それだけではありません。ミトラ氏は言います。
ニューカッスルでの最初の実験は、インドでやったものと同じですが、不可能に思える目標を立てました。「南インドの村に住んでタミル語を話している12歳の子どもたちがバイオテクノロジーを英語で自習できるだろうか?」 26人の子どもたちを集めました。そこでこう話したのです。「とても難しい内容だよ。誰も理解できなくても驚かないよ。すべて英語だし」そう言って立ち去りました(笑)。コンピュータを子どもたちに残して、2カ月後に戻ってみると、26人の子どもがとても静かに集まってきて「何か見てみた?」と聞いたら、「見たよ」と答えたのです。「何か分かった?」と聞いたら「なんにも」というのです。そこで私が「何も分からないと判断するまでにどれくらいの期間やったの?」と聞いたら、「毎日見てたよ」と答えます。「2カ月見て何も?」と聞いたら、12歳の少女が手を挙げて、実際にこう言いました。 「DNA分子の不適切な複製で遺伝子疾患が起きるということ以外は何も分からないの」(笑) 子どもたちのテスト結果は0%から30%へと良くなりました。このような地域ではありえない教育結果です。(3) |
つまり、12歳の子どもがバイオテクノロジーについて勝手に学び、少しずつ理解を深めていったというのです。まだ続きがあります。
でも30%で合格ではありません。子どもたちが一緒にサッカーをする地元の若い女性会計士がいることを知って、その女性にこんなお願いをしてみました。「合格点を出せるぐらいまで、この子たちにバイオテクノロジーを教えてくれませんか?」と。「どうするの?何も分からないのに」と聞くので 「お婆ちゃんになって」と言いました。「どういうこと?」と彼女が尋ねるので、こう教えてあげました。 「子どもたちの後ろに立って、子どもたちを励まし続けるんだ。 “いいね” “すごいね” とか言ったり、 “それ何?” “もう一度” “もっと見せて” とか言うんだよ」 その女性が2カ月間続けるとテスト結果は50%まで良くなりました。バイオテクノロジーに詳しい教師がいる、ニューデリーの上流階級の学校の生徒が取る点数です。(3) |
ミトラ氏の実験から導かれるのは、「子どもは、教師がいなくても、好奇心とインターネットがあれば勝手に学ぶ。励ます人が近くにいると、よりよく学ぶ」ということです。
長い引用となりましたが、ミトラ氏の実験は、教育の「本質」を見事に裏づけたものと思えてなりません。
(1) 白川静『常用字解』平凡社、2003年。
(2) エデュカーレSTAFF BLOG
http://ikuji-hoiku.net/educare_wp/staffblog/2005.html
(3) スガタ・ミトラ 「自己学習にまつわる新しい試み」(2010)
https://www.youtube.com/watch?v=5iLPOQ8lXsA