「思いもかけない出来事が次々と起きる。世界は歴史の変動期のただ中にある。そうした目まぐるしい展開の底流で、三つの危機が同時に進行していることに目を向けたい。」
元旦の読売新聞社説はこのように述べ、「平和の危機」「民主主義の危機」「自由の危機」について警鐘を鳴らしています。(1)

多大な犠牲をもたらした第二次世界大戦が終結し、2025年でちょうど80周年を迎えます。しかし、この間、世界各地で戦火が絶えることはありませんでした。ロシアによるウクライナ侵攻はもうすぐ3年目を迎え、膨大な犠牲者を出しています。イスラエルによるパレスチナ侵攻は周辺国を巻き込んで終わりが見えない状況が続いています。国家のリーダーが核兵器の使用に言及する状況すらあります。

戦争は国家レベルの究極の暴力です。歴史を顧みれば、一万年もの間、人類は暴力で他者を支配する社会を作ってきました。しかし、今から約250年前、「自由と平等」「人民主権」「言論の自由」等の思想が生まれ、「お互いを自由で対等な存在として認めあう」ことをルールとする考え方、「民主主義」に基づいて社会を運営する国家が広がってきました。

人類の暴力の歴史を調査した研究者によると、人類の歴史を長いスパンで見ると、ここ2〜3世紀の間、データとしては戦争や暴力は減少しているのだそうです(兵器の近代化もあり、二つの大戦による犠牲者数には多大なものがありましたが)。その証拠に、ウクライナやガザ地区の報道を見て、私たちを含め世界の多くの人々は「許せない」「戦争はやめるべきだ」という拒絶反応をする、そういう感覚を持ち合わせており、国際的な世論が高まっています。しかし、民主主義の考え方が存在しなかった2〜3世紀前の人間にとっては、他人を暴力で傷つけたり、殺したりするのは日常の風景であって、現在人のような感覚を持つことはなく、現状を受け入れるしかなかったわけです。(2)

このことは、多くの課題を抱えつつも人類の確実な進歩であると言えます。私はここに小さな希望を感じます。

 

ところで、経済学者の暉峻淑子氏は、「いま私は、『戦争・暴力の反対語は、平和ではなく対話です』と考えるようになりました」と述べています。

日本人の多くは、戦争に巻き込まれたり、暴力行為によって支配されることがない平穏な生活を、平和だと考えているようです。平和とは受け身で何もしないことではない、平和も民主主義も努力して作っていくものだと、頭では分かっていても、おまかせ主義の毎日が過ぎていきます。 しかし他方で平和(平穏な生活)を支えているのは、暴力的衝突にならないように社会の中で対話し続け、対話的態度と、対話的文化を社会に根づかせようと努力している人びとの存在だということに、私も気がつくようになりました。(3)

このことは、私たちの日常生活にもあてはまるのではないでしょうか。日常生活、学校生活の中で、人間関係の難しさを感じている人が多いことでしょう。日々の生活の中で、他人と意見が合わないこと、対立することはたくさんあります。そういうとき暴力を行使することは明らかな人権侵害であり、さらに有形力による暴力だけでなく、いわゆる「言葉の暴力」や威圧的態度も社会的に許されない行為としてみなされる時代です。大切なのは、違う人間である以上、顔が違うように考え方が違うのが当然であるということ、考え方や意見の違う人に対してもリスペクトの気持ちを忘れないことです。リスペクトの気持ちを持って対話すれば、ほとんどの問題は解決することができると私は信じています。

2025年は、「立命館」の名称が初めて使われてから155年、立命館が大学として発足して125周年を迎えます。そして、立命館守山高等学校が開校して19年が終わろうとしており、4月からは20年目に入ります。

そうした節目となる2025年を迎えるにあたり、私は、「自由と清新」「平和と民主主義」を掲げる立命館学園、「学びで社会を変えるGame Changer」をめざす立命館守山中学校・高等学校を、お互いがリスペクトしあい、「対話」であふれる場所にしたいと考えています。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

※この記事は1月8日の3学期始業式講話を基に加筆・再構成しました。

注釈

(1) 「読売新聞」2025年1月1日付社説 https://www.yomiuri.co.jp/editorial/20241231-OYT1T50061/

(2) logme business「人類の『暴力の歴史』を変えてきたのは哲学と教育 苫野一徳氏が語る、歴史の転換点」https://logmi.jp/main/education/322910

(3) 暉峻淑子『対話する社会へ』岩波新書、2018年。