現実と虚構の不思議な一致
〜直木賞作家の創造力〜
私の前任校である立命館宇治高等学校の卒業生に、北海道で「農家民宿」を経営している江面陽子(えづら・ようこ)さんという方がいます。
江面さんは、立命館大学を卒業後、東京に就職、30歳を目前にご主人と脱サラし北海道に移住。現在では、畑作経営、作物のインターネット直売、民宿「えづらファーム」の経営、農業体験・ボランティア受け入れ、農作業を通じた企業研修の受け入れ等、地方から農業の豊かさを発信する活動を展開しています(1)。その活動は、様々なメディアに取り上げられ、国土交通省や農業公社から表彰される等、多方面からの注目を集めています。
私自は彼女と直接の面識はありませんが、数年前、私の教え子で立命館宇治に勤務する教員から教えてもらい、その方の存在は知っていました。
さて、3学期が始まって間もない1月中旬、偶然、新聞の紙面に「えづらファーム」の文字を見つけました。記事には、えづらファームが直木賞(2)作家の小説のモデルになったようなことが書かれていました。
その直木賞作家とは伊予原新(いよはら・しん)氏で、最近本校の教員から紹介されて読みかけていた『宙(そら)わたる教室』(3)の作者でもありました。
記事の主旨は、こうです。
直木賞受賞作『藍を継ぐ海』(4)所収の短編「星隕つ駅逓(ほしおつえきてい)」は、北海道に隕石が落ちる話で、舞台は北海道遠軽町の白滝地区、主人公の涼子は農場と宿泊施設「ほろそうファーム」を経営するという設定なのですが、作品を読んだ江面さんは、地名、経営スタイル、周辺の描写、娘の名付けに至るまで、自身の生活と「すべてがそっくり」であることを確信します。しかし、不思議なのは、江面さんは作者の伊予原氏とは会ったこともないし、取材も受けていません。ただ、本の「あとがき」からわかったのは、伊予原氏(がパリ留学時代)の知人で音楽家の黒岩真美さんが遠軽町出身であり、伊予原氏は彼女から話を聞いて、作品の着想を得たらしいことでした。
記者は、伊予原氏本人にインタビューを行います。
北海道に隕石(いんせき)が落ちる物語にしようと考えたのが始まりだったという。その時、パリで黒岩さんに聞いた遠軽町の話を思い出した。 「市街地に落とすと展開が難しい。人の少ない白滝の方を舞台に決めた」。インターネット上の地図を調べる過程で、江面さんの農場を見つけたという。郵便局の大山さんからも地域のことを聞いた。 伊与原さんが町を訪れたことはない。「小説は僕が調べたことと、想像で書いた」と話す。 だが、そこに偶然の一致が生まれた。 主人公の涼子は、消えていく地名を残そうとある行動をする。江面さんたちも、名産のじゃがいもを「白滝じゃが」と名付け、遠軽町への合併で消えた旧白滝村の地名を残そうとしていた。 伊与原さんは「今、初めて知りました」と驚く。江面さんの娘の名前も「もちろん、知る由はなかった」という。(5) |
つまり、「偶然の一致」は、作家の想像力が生み出した奇跡であったわけです。「事実は小説よりも奇なり」ということわざがありますが、「小説は事実のごとく奇なり」とも言えそうです。
伊予原新氏は、神戸大学理学部地球科学科卒業後、東京大学大学院理学系研究科で地球惑星科学を専攻した理学博士で、科学をモチーフとした作品を生み出している異色の小説家です。『藍を継ぐ海』は、生きづらさを抱えながらも地方でひたむきに生きる人々を主人公に、科学の視点から「大切なものの継承」をテーマに描いた珠玉の短編集です。中高生にも読みやすい作品として、オススメします。
注釈
(1) 農家民宿えづらファーム https://www.ezurafarm.com
(2) 直木賞:「直木三十五の大衆文学における業績を記念し、大衆文学の新人の顕彰を目的として、菊池寛が1935年(昭和10)に設けた文学賞。年2回で、現在は実績の著しい中堅の作家に贈られる。」(「スーパー大辞林3.0」)
(3) 伊予原新『宙(そら)わたる教室』2023年、文藝春秋。この作品は、昨年、窪田正孝主演でドラマ化されました。
(4) 伊予原新『藍を継ぐ海』2024年、新潮社。
(5) 「朝日新聞」2025年1月15日付朝刊「直木賞の小説「モデルは私?」 作家と面識なし、奇妙な一致の謎」