作家・柚木麻子氏によるベストセラー小説『BUTTER』が、イギリスを中心に世界40ヶ国・地域で翻訳出版が決定し、累計部数170万部(日本国内70万部)を突破するなど、国内外で大きな反響を広げています(1)。

まず、あらすじを紹介します。
<男たちの財産を奪い、殺害した容疑で逮捕された梶井真菜子(カジマナ)。若くも美しくもない彼女がなぜ──。週刊誌記者の町田里佳は親友の玲子の助言をもとに梶井の面会を取り付ける。フェミニストとマーガリンを嫌悪する梶井は、里佳にあることを命じる。その日以来、欲望に忠実な梶井の言動に触れるたび、里佳の内面も外見も変貌し、玲子や恋人の誠らの運命をも変えてゆく。各紙誌絶賛の社会派長編。(2)>

サスペンス調のどんでん返しが仕組まれたストーリー展開に加え、料理や食事の描写が繊細かつ秀逸で、とりわけタイトルでもある「BUTTER」にまつわる場面には、思わず「白ご飯に一切れのバターを載せ、醤油をかける」衝動に駆られるほどでした。
ただ、この作品をめぐる話題は、物語の内側だけにとどまりませんでした。作品が欲望や価値観を照らし出すように、現実の社会や制度のあり方もまた、私たちの感受性を試すかたちで浮かび上がってきたのです。

4月、柚木氏が、大ヒット中の作品『BUTTER』について新潮社との出版契約を解消し、6月から版権を別の出版社に移行すると発表しました。新潮社は出版業界の最大手であり、作家にとっても一般には大きな後ろ盾になり得る存在です。そのなかで、柚木氏を突き動かしたものは何だったのでしょうか。

柚木氏自身は、次のように語っています。
<今回の判断の背景には、昨年、作家仲間である深沢潮さんに著しい苦痛を与える記事が、彼女のデビュー元である新潮社発行の雑誌に掲載されたことがあります。その後の状況や、彼女にかかった負担、そして孤立について見聞きし、出版というシステムの在り方を深く考え直す契機の一つとなりました。
作家として、自分にできる具体的なアクションは何か。検討を重ねた結果、新潮社様における複数の版権のうち、一作を他社へ移動するという選択に至りました。これは現時点での、私なりの最大限の意思表示です。(3)>

この発言を読むと、今回の出版契約解消は、作家仲間を傷つける記事が掲載された新潮社発行の雑誌「週刊新潮」への抗議を含む、強い問題提起として受け取れるものだった、と考えられます。

では、その記事はどのような内容だったのでしょうか。私の調べた範囲では当該コラム記事そのものは確認できず、「週刊新潮」のバックナンバーも売り切れていました。しかし「創氏改名2.0」と題する当該記事を収録した書籍が刊行されていることがわかり、早速入手しました。それは、次のような文章でした。
<日本人の差別意識を批判する深沢潮が韓国人の子女だと朝日が明かしたのはだいぶ後になってからだ。〔中略〕
日本名で日本人をあたかも内部告発するような言い方は素直には聞けない。はっきり外人名で語らせるべきではないか。
日本も嫌い、日本人も嫌いは勝手だが、ならばせめて日本名を使わせるな。(4)>

この記事が「週刊新潮」2025年7月31日号に掲載された後、各方面からの批判が殺到し、新潮社は8月4日にサイト上でお詫びの声明を発表。あわせて、8月28日号をもって記事の筆者である髙山正之氏の連載を打ち切ることになりました。その後、同社は12月25日にサイト上で、この問題の総括と今後の方針を次のように表明しました。
<当該コラムには、外国にルーツを持つ方への差別ととられかねない表現、尊厳や人権への配慮を欠いた内容が含まれていました。特に在日コリアンの方々には、民族差別をはじめとした複雑な歴史的背景があります。「創氏改名2.0」というタイトルで、作家の深沢潮氏らの実名を挙げて、日本名の使用について言及したくだりに厳しいご批判をいただきました。重く受け止めております。(5)>

『BUTTER』は、読者の身体感覚を揺さぶる作品です。「白ご飯にバターを……」という衝動のごとく、私たちの内側の欲望や価値観をあぶり出す力を持っています。
しかし今回の一件が突きつけたのは、もっと別の「空腹」だったように思います。社会のどこかで誰かの尊厳が削られているとき、それを「仕方ない」「よくあること」として受け流してしまう——その鈍感さのほうです。
だからこそ柚木氏の行動は、作品世界の外側で行われたもう一つの「問いかけ」だったのではないでしょうか。「NO」と言える勇気を、自分の正しさの証明ではなく、他者へのリスペクトを示す行動として。

注釈
(1) 「PR TIMES」
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001243.000012754.html
(2) 柚木麻子『BUTTER』(新潮文庫、2020年)の裏表紙の説明文
(3) 柚木麻子氏のインスタグラム
(4) 髙山正之『高石早苗が習近平と朝日を黙らせる』ワック株式会社、2025年。
(5) 新潮社サイト「人権デューデリジェンスの新たな取り組みについて──週刊新潮コラム問題をふまえて」
https://www.shinchosha.co.jp/news/article/3351/